1. ESHREとは何か:組織概要と設立の背景
ESHRE(European Society of Human Reproduction and Embryology:欧州生殖医療学会)は、生殖科学・生殖医療の研究・教育・臨床の向上を目的とした国際的な非営利学術団体です[1]。
その名称に「European(欧州)」と冠されているものの、現在では世界135カ国以上から会員が参加しており、事実上、地球規模で最も影響力を持つ生殖医療の国際学術団体の一つとなっています。
ESHREは1985年に設立されました[2]。
設立を主導したのは、試験管ベビー(体外受精児)誕生に貢献したことでノーベル生理学・医学賞(2010年)を受賞した英国ケンブリッジ大学のRobert Edwards教授と、パリを拠点とするフランス人産婦人科医Jean Cohenです[2]。
両者は、当時急速に発展しつつあった生殖医療・胚科学の分野において、欧州を中心とした独自の学術コミュニティと専門誌、そして年次大会の場が必要であると認識し、学会設立に踏み切りました。
| ESHREの基本情報 設立年:1985年 本部所在地:ベルギー、Strombeek-Bever(Nijverheidslaan 3, B-1853)[3] 会員数:約9,756名(2024年度)[4] 加盟国数:135カ国以上 法人形態:欧州非営利団体(ベルギー法準拠) |
ミッションは「生殖科学と医療の研究を推進し、臨床・ラボ手技の改善を通じて不妊治療の質を高め、政策立案者・一般市民への正確な情報発信を行うこと」とされています[1]。
この三本柱(研究・臨床・政策)がESHREの活動全体を貫く軸となっています。

2. 会員構成とガバナンス
2-1. 多職種にわたる会員構成
ESHREの会員は医師(産婦人科・泌尿器科・内分泌科等)にとどまらず、臨床胚培養士(Embryologist)、看護師・助産師、生殖遺伝学者、基礎科学者、心理士、倫理学者など、生殖医療に関わる多職種で構成されています[4]。
この多職種性こそが、ESHREが単なる医師の団体を超え、ARTクリニック全体の実践に影響力を持つ理由の一つです。
2-2. ガバナンス構造
学会運営は執行委員会(Executive Committee)が担い、欧州14カ国以上の代表メンバーにより構成されます[5]。
2025〜2027年期の会長(President)は、スイス・フリブール大学病院のAnis Feki教授が務めています[4]。
本部事務局にはフルタイムスタッフ24名が常駐し、学会全体の運営・渉外・教育プログラムを統括しています[5]。

3. 年次大会(Annual Meeting)
ESHREの年次大会は、生殖医療分野における世界最大規模の国際学術集会の一つです[6]。
例年6〜7月に欧州主要都市で開催され、毎回1万人を超える参加者が世界各地から集結します。
| 年 | 開催都市・国 | 参加者数 | 参加国数 |
| 2023年(第39回) | コペンハーゲン(デンマーク) | 11,533名 | N/A |
| 2024年(第40回) | アムステルダム(オランダ) | 12,677名 | 134カ国 |
| 2025年(第41回) | パリ(フランス) | 13,459名 | 138カ国 |
| 2026年(第42回) | ロンドン(英国) | 2026年7月5〜8日開催予定 | — |
出典:ESHRE年次報告書(2024)、EMJ Reviews(2025)[6][7]
大会では、最新の研究発表(口頭・ポスター)、臨床ワークショップ、ガイドライン解説セッション、ランチョンシンポジウムなどが行われ、毎年数百演題が採択されます。
大会の議論は、その後の診療ガイドライン改訂にも反映されるため、臨床実践への影響が非常に直接的です。
また、ESHREは米国生殖医学会(ASRM)とのジョイントシンポジウム「Best of ASRM and ESHRE」を定期開催しており、大西洋をまたいだ生殖医療の知見共有を促進しています[8]。

4. 専門部会(Special Interest Groups:SIGs)
ESHREは14の専門部会(SIG: Special Interest Group)を設置しており、それぞれが特定の専門領域における研究・教育・ガイドライン策定を担っています[9]。
SIGは年次大会のプレコングレスワークショップや独自のオンラインセミナーを通じて、会員教育に重要な役割を果たしています。
| SIG名称 | 主要テーマ |
| Embryology | 胚培養、ラボ実践、培養環境の標準化 |
| Endometriosis and Endometrium | 子宮内膜症の診断・治療、着床不全 |
| Ethics and Law | 生殖医療における倫理・法的枠組み、代理出産、配偶子提供 |
| Fertility Preservation | がん患者・社会的理由による妊孕性温存 |
| Reproductive Genetics | PGT(着床前遺伝学的検査)、遺伝カウンセリング |
| Reproductive Surgery | 腹腔鏡・子宮鏡手術の適応と手技 |
| Safety and Quality in ART | KPI・ラボ品質指標(ウィーン・コンセンサス等) |
| Andrology | 男性不妊、精液検査、精巣機能評価 |
| Stem Cells | 生殖幹細胞研究、配偶子形成の基礎科学 |
| Psychology and Counselling | 不妊治療における心理的支援、カウンセリング実践 |
| Reproductive Endocrinology | 排卵障害、POI、PCOS、甲状腺機能と妊娠 |
| Implantation and Early Pregnancy | 着床機序、初期流産、習慣性流産 |
| Female Infertility | 原因不明不妊、卵管因子、子宮因子 |
| Global and Socio-cultural Aspects of Infertility | 不妊の社会的・文化的側面、低中所得国へのART普及、グローバルヘルス |
| Nurses and Midwives | 生殖医療における看護・助産実践、患者教育・支援 |
出典:ESHRE公式ウェブサイト(SIGsページ)[9]

5. 臨床ガイドライン
ESHREの最も重要な活動の一つが、エビデンスに基づく臨床ガイドライン(Evidence-based Clinical Practice Guidelines)の策定・更新です[10]。
これらのガイドラインは世界的な標準参照として広く使用されており、日本を含む非欧州諸国のARTクリニックでも、診療プロトコルの根拠として引用されることが多いです。
ガイドライン開発は、各分野の専門家からなるガイドライン開発グループ(GDG)がGRADEシステムを用いて推奨グレードを判定し、パブリックコメントやステークホルダーレビューを経て最終版が公表される、透明性の高いプロセスで行われます。
5-1. 主要ガイドライン一覧
| 対象疾患・テーマ | 最新版(年) | 主な推奨事項のポイント |
| 多嚢胞性卵巣症候群(PCOS) | 2023年[11] | ロッテルダム診断基準の継続採用。排卵誘発の第一選択薬としてレトロゾールを推奨 |
| 子宮内膜症 | 2022年[10] | 診断に腹腔鏡を必須としない。高精度の経腟超音波・MRIを優先使用する方針 |
| 習慣性流産(RPL) | 2023年[12] | 2回以上の流産と定義(従来3回から変更)。抗リン脂質抗体・子宮形態のスクリーニングを推奨 |
| IVF/ICSI のための卵巣刺激 | 2025年[13] | OHSS(卵巣過剰刺激症候群)リスク低減のためGnRHアンタゴニスト法を推奨。2025年版では新規推奨46項目を追加し、計121項目の推奨 |
| 早発卵巣不全(POI) | 2024年[14] | 自然閉経年齢(約51歳)までのホルモン補充療法(HRT)継続を強く推奨。計145項目の推奨を提示 |
| 着床前遺伝学的検査(PGT) | 継続更新中 | PGT-A(染色体異数性スクリーニング)は全例適用ではなく、適応を明確に絞ることを推奨 |
| IVFラボにおける良質な実践 | 2026年版ドラフト公開中[15] | SoHO(ヒト由来物質)規則への対応、医療機器規制(MDR)への準拠を新たに明記 |
これらのガイドラインはESHRE公式サイトおよび学術誌 Human Reproduction 上に全文が公開されており、会員は無償でアクセスできます。

6. 学術誌
ESHREはオックスフォード大学出版局(Oxford University Press: OUP)と提携し、生殖医療領域で世界的に影響力の高い4種の学術誌を発行しています[16]。会員はこれら全誌に無償アクセスが可能です。
| 誌名 | インパクトファクター(2024年) | 特徴・掲載内容 |
| Human Reproduction Update | 16.1[17] | 系統的レビュー・メタ解析専門誌。産婦人科・生殖生物学分野で世界最高水準のインパクトファクター(5年IF: 17.9) |
| Human Reproduction Open(HR Open) | 8.3[17b] | 完全オープンアクセス誌。研究成果を迅速かつ広く公開することを目的とする |
| Human Reproduction | 6.1[18] | ESHREの旗艦誌。原著論文・RCT・臨床症例報告・論評を掲載。CiteScore 11.1(Scopus) |
| MHR: Foundations of Reproductive Science(旧 Molecular Human Reproduction) | 3.5 | 生殖の基礎・分子生物学的メカニズムに特化したオンライン専門誌 |
中でも Human Reproduction Update はインパクトファクター16.1(2024年JCR単年値)、5年インパクトファクター17.9と、産婦人科・生殖生物学領域で世界最高水準の学術誌であり、ESHREガイドラインの根拠となる系統的レビューの主要な発表の場となっています[17]。

7. データ収集・登録・認定プログラム
7-1. EIM(European IVF Monitoring)コンソーシアム
EIMは1997年から運営されている欧州のART治療サイクルデータ収集プログラムです[19]。欧州約40カ国のARTセンターから、IVF・ICSI・凍結融解移植・卵子提供などのサイクルデータを毎年収集し、Human Reproduction誌に統計レポートとして発表します。
このデータは欧州における生殖補助医療の利用実態・転帰を把握するための重要な一次資料となっています。
7-2. PGTコンソーシアム
着床前遺伝学的検査(PGT)の安全性モニタリングと長期的な転帰追跡を目的としたデータレジストリです。
PGT-A、PGT-M、PGT-SRの各種検査の実施件数と結果が国際比較可能な形式で集積・報告されています[9]。
7-3. ARTセンター認定(ARTCC)プログラム
2016年にESHREが開始したARTセンターの外部認定プログラムです[20]。スタッフ資格・継続教育・設備・検査法の根拠性(エビデンスベース)・臨床KPIなどを評価基準とし、検査員(clinician・embryologistら37名を任命)が現地訪問審査を行います。ESHREガイドラインへの準拠が認定要件の核心です。
7-4. ウィーン・コンセンサス(Vienna Consensus)
ESHRE と Alpha Scientists in Reproductive Medicine(Alpha)が共同で作成した、ARTラボにおけるKPI(Key Performance Indicators)の国際コンセンサスです[21]。
12項目のKPI・5項目のPI・2項目の参照指標について「最低許容値(Competency)」と「目標値(Benchmark)」が設定されており、世界の胚培養士にとっての品質基準として機能しています。

8. EU規制・政策への関与
ESHREは学術活動にとどまらず、欧州連合(EU)の医療規制策定における主要ステークホルダーとしての役割も担っています。
生殖細胞・組織の安全性と品質に関する欧州規制として、EU組織・細胞指令(EUTCD: EU Tissues and Cells Directive、2004/23/EC)の運用においてESHREは長年にわたりポジションペーパーを発行し、IUI・IVF・凍結保存などへの指令適用範囲の解釈に専門的な知見を提供してきました[22]。
さらに近年は、EUTCDを刷新する新たなEU規則「SoHO(Substances of Human Origin)規則」の策定にも積極的に関与しています[15]。
この新規則はART・輸血・移植など全てのヒト由来物質の安全性管理を統合するもので、ESHREは生殖医療分野の特殊性(配偶子・胚の第三者提供など)について欧州委員会に働きかけを続けています。
9. 最新動向(2024〜2025年)
9-1. AIに関するコンセンサス(2024年)
2024年の大会および関連会議において、ESHREはIVFラボにおける人工知能(AI)の活用に関するポジション声明をまとめました[7]。
その骨子は「AIは胚評価・精子選別における意思決定支援ツールであり、臨床胚培養士の専門的判断を代替するものではない」というものです。
AI技術の急速な進展に対応しながら、患者安全と透明性を確保するための原則が示されました。
9-2. 子宮内膜症と妊孕性に関する新知見(ESHRE 2025)
2025年のパリ大会(第41回)では、子宮内膜症関連不妊に関する注目の研究が発表されました。
子宮内膜症に起因する不妊患者は、他の原因による不妊患者と比較して有意に高い妊娠率を示すという大規模スタディが報告され、子宮内膜症の予後評価に関する従来の認識を見直す契機となりました[6]。
9-3. 「グリーンIVF(Green IVF)」への取り組み
環境負荷の観点から、ARTクリニックのカーボンフットプリント削減・廃プラスチック削減・エネルギー効率改善について、本格的な議論と取り組みガイダンスが進んでいます。これはESHREが医療倫理の拡張として環境責任を位置づけ始めた重要なシフトです。
9-4. 卵巣刺激ガイドライン2025年版の公表
IVF/ICSIのための卵巣刺激ガイドラインの最新版(2025年版)が Human Reproduction 誌に公表されました[13]。2024/25年版では46の新規推奨事項が追加され、GnRHアンタゴニスト法によるOHSSリスク低減策の強調、並びに凍結全胚移植戦略の位置づけが明確化されました。
9-5. ESHRE 2026(ロンドン)
次回の年次大会(第42回)は2026年7月5〜8日、英国ロンドンで開催される予定です[8]。プログラム策定が進んでおり、2026年5月12日までの事前登録で早期割引が適用されます。

10. 日本の不妊治療との接点
日本はESHREの加盟国(個人会員として参加)であり、日本人研究者・胚培養士・産婦人科医も少なくない数が会員として登録し、年次大会に参加しています。
日本生殖医学会(JSRM)・日本IVF学会といった国内学会とESHREは、ガイドラインの相互参照という形で関係を築いています。
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| 日本の臨床家・クリニック運営者がESHREを参照すべき主な理由 1.ガイドラインの国際標準性:PCOS・子宮内膜症・習慣性流産・POI・卵巣刺激など主要疾患のガイドラインは、日本でも査読論文の根拠として頻用される 2.ラボKPI(ウィーン・コンセンサス):受精率・胚盤胞到達率などのKPIベンチマーク値は、ARTラボ品質管理の国際標準として日本でも参照されている 3.AI・技術革新への指針:AI胚評価システムの臨床応用に際し、ESHREのポジション声明は技術導入の倫理的・実践的根拠となる 4.EIM統計との比較分析:欧州のART成績データと自院データを比較することで、国際的な診療水準との乖離を客観的に評価できる |
特に標準化・品質管理を推進する立場においては、ESHREのARTCC(ARTセンター認定)プログラムの評価基準や、ウィーン・コンセンサスのKPI体系は、院内品質管理システム構築の有力な参照フレームワークとなり得ます。
参考文献・出典
1. ESHRE. “Mission and Values.” European Society of Human Reproduction and Embryology. https://www.eshre.eu/Home/About-us/Mission-and-Vision
2. Wikipedia. “European Society of Human Reproduction and Embryology.” https://en.wikipedia.org/wiki/European_Society_of_Human_Reproduction_and_Embryology
3. ESHRE. Journals Contact Information. https://www.eshre.eu/Publications/Journals
4. ESHRE. Annual Report 2024. European Society of Human Reproduction and Embryology, 2024.
5. ESHRE EU Affairs Committee. Infographic 2025. https://www.eshre.eu/-/media/sitecore-files/ESHRE-internal/EU-Affairs/ESHRE_EUAffairsCommittee_Infographic_200225.pdf
6. EMJ Reviews. “Review of the 41st Annual Meeting of ESHRE, 29th June–2nd July 2025.” https://www.emjreviews.com/…
7. RembryO. “Highlights from ESHRE’s 41st Annual Meeting (2025).” https://www.remembryo.com/highlights-from-eshres-41st-annual-meeting-2025/
8. ESHRE. “ESHRE 2026 London.” https://www.eshre.eu/2026
9. ESHRE. “Special Interest Groups.” https://www.eshre.eu/SIGs
10. ESHRE. “Endometriosis Guideline.” https://www.eshre.eu/guideline/endometriosis
11. ESHRE. “Polycystic Ovary Syndrome Guideline.” https://www.eshre.eu/Guidelines-and-Legal/Guidelines/Polycystic-Ovary-Syndrome
12. Cimadomo D, et al. “ESHRE good practice recommendations on recurrent implantation failure.” Human Reproduction Open, 2023. PMC: https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC10270320/
13. Ata B, et al. “ESHRE guideline: ovarian stimulation for IVF/ICSI.” Human Reproduction, 2026. PubMed: https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/41732035/; PMC: https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC13061131/
14. ESHRE. “Evidence-based guideline: Premature Ovarian Insufficiency, 2024.” PubMed: https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/39647506/
15. ESHRE. “Practice in the IVF laboratory – 2026 Stakeholder Review Draft.” https://www.eshre.eu/-/media/sitecore-files/Guidelines/IVF-lab/2026/…
16. ESHRE. “ESHRE Journals.” https://www.eshre.eu/Publications/Journals
17. Oxford Academic. “Human Reproduction Update – About.” https://academic.oup.com/humupd/pages/about (2024年 単年Impact Factor: 16.1; 5年Impact Factor: 17.9; Obstetrics & Gynecology rank 1/141)
18. Oxford Academic. “Human Reproduction Open.” https://academic.oup.com/hropen (2024年 単年Impact Factor: 8.3)
19. ESHRE. “Human Reproduction Journal.” https://www.eshre.eu/Publications/Journals/Human-Reproduction (Impact Factor 6.1; CiteScore 11.1)
20. ESHRE. Data Collection and Research – EIM Registry. European Society of Human Reproduction and Embryology.
21. ESHRE. “ESHRE certification of ART centres for good laboratory and clinical practice.” Human Reproduction, 2022. PubMed: https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/36196081/
22. ESHRE & Alpha Scientists in Reproductive Medicine. “The Vienna Consensus: report of an expert meeting on the development of ART laboratory key performance indicators.” https://www.eshre.eu/-/media/sitecore-files/SIGs/Safety-and-quality/The-Vienna-consenus_Lab-KPI.pdf
23. ESHRE. “ESHRE position paper on the EU Tissues and Cells Directive.” https://www.eshre.eu/-/media/sitecore-files/Guidelines/Guidelines/Position-Papers/Tissues-and-cells-directive.pdf

