「ただいま」
玄関のドアを開けて、重いバッグを床に置いた。判定日の夕方、仕事を早退して病院に行ってきた。
「おかえり。どうだった?」
リビングからソファに座った夫が顔を上げた。
「……ダメだった」
私はそれだけ言って、キッチンに向かった。コップに水を注いで飲む。夫は何も言わなかった。沈黙が流れた。
「残念だったね」
夫がそう言った。私は返事をしなかった。
「でも、次があるよ」
その「次」という言葉が、私の中で何かに火をつけた。
「次って何?!」
振り返って声を荒げた。夫が驚いた顔をした。
「また私が注射打つの?また毎日病院通うの?あなたの仕事は数分で終わるけど、私は24時間ずっと薬漬けなの!ホルモン剤で吐き気がしても、仕事休めなくて、トイレで吐いて、また働いてるの!」
涙が溢れた。声が震えた。止まらなかった。
「これは一人の問題じゃないの!二人の問題なのに、なんで私だけがこんなに苦しまなきゃいけないの?!」
夫は黙って聞いていた。何も言い返さなかった。私は泣き崩れた。リビングの床に座り込んで、顔を両手で覆った。
「ごめん……」
夫が小さな声でそう言った。でも私は何も答えられなかった。

その夜、夫は別の部屋で寝た。私も泣き疲れて、そのまま眠った。
翌朝、気まずい空気が流れた。朝ごはんは無言だった。夫は「行ってくる」とだけ言って出勤した。私は「いってらっしゃい」と小さく答えた。
それから数日間、会話は最低限だった。お互いに何を話していいのかわからなかった。
3日後の夜、仕事から帰るとテーブルの上に一冊の本が置いてあった。
『男性のための不妊治療ガイド』
手に取ってページを開くと、付箋がびっしり貼ってあった。「パートナーにかける言葉」「男性ができるサポート」「夫婦で乗り越えるために」。重要な部分には蛍光ペンで線が引かれていた。
夫が帰ってきた。玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
「おかえり」
リビングに入ってきた夫と目が合った。私は本を持ったまま立っていた。
「……読んだ?」
夫が聞いた。
「うん」
「ごめん」
夫はそう言った。

「俺、全然わかってなかった。お前がどれだけ大変か、考えたこともなかった。精液検査の日だけ『俺も頑張ってる』って思ってた。でも、全然違うな」
私は何も言えなかった。涙が出そうになった。
「次の診察、仕事調整して一緒に行くよ。先生の話、ちゃんと聞きたい」
その言葉に、私の目から涙が溢れた。今度は悲しい涙じゃなかった。
「ありがとう」
そうしか言えなかった。
次の診察日、夫は本当に仕事を調整して一緒に来てくれた。待合室で並んで座りながら、夫が小声で言った。
「こんなに患者さんがいるんだな」
「うん。みんな頑張ってる」
診察室に入ると、医師が少し驚いた顔をした。
「今日はご主人もご一緒ですね」
「はい。これまで妻に任せきりにしてしまって。今日からちゃんと話を聞きたいと思って」
夫がそう答えた。医師はうなずいて、今後の治療方針を説明してくれた。夫は真剣にメモを取っていた。
「先生、僕にできることは何かありますか」
夫がそう尋ねた。医師はいくつかのアドバイスをくれた。生活習慣のこと、サプリメントのこと、精子の質を上げる方法。夫はそれも全部メモした。

帰り道、駅までの道を歩きながら夫が言った。
「俺、もっと早く一緒に行けばよかった。お前が一人でこんなに頑張ってたなんて、ちゃんとわかってなかった」
私は夫の手を握った。
「ありがとう」
それから、夫は大事な診察の日には付き添ってくれるようになった。採卵の日も一緒に来てくれて、終わった後は車で迎えに来てくれた。
注射の後、腕が腫れていると夫がマッサージしてくれる。吐き気がする日は夕飯を作ってくれる。「無理すんなよ」と言って、早く寝かせてくれる。
まだ、私との温度差はある。夫は毎日、身体的な痛みを感じるわけじゃない。ホルモンの変動に振り回されるわけでもない。
でも、「一人で戦ってるんじゃない」と思えるだけで、止まりかけていた足が少しだけ前に出る気がした。
この道はまだ長い。ゴールも見えない。
でも今は、隣に誰かがいる。その事実が、私を支えてくれている。

