生殖医療の世界標準を作る組織の全貌——設立から最新ガイドラインまで
American Society for Reproductive Medicine | 2026年5月
1. ASRMとは — 組織の概要
ASRM(American Society for Reproductive Medicine)は、生殖医療の科学と臨床実践の進歩を目的として活動する、世界最大級の多職種型非営利組織である。[1]
本部はワシントンD.C.に置かれ、管理・運営の事務局はアラバマ州バーミンガムに設置されている。[2]
| ミッション(公式声明) 「ASRMは、生殖医療の科学と実践の進歩に専心する組織です。教育・研究の卓越性の追求、ならびに患者・医師・医療従事者への代弁活動(アドボカシー)を通じて、その使命を果たします。」[1] |
ASRMは単一職種の組織ではなく、婦人科医・産科医・泌尿器科医・生殖内分泌専門医・胚培養士・看護師・心理士・遺伝カウンセラーなど、生殖医療に関わるすべての専門職が参加できる「多職種連合体」として設計されている点が最大の特徴である。
不妊症・体外受精(IVF)・配偶子提供・男性不妊・早発卵巣不全(POI)・反復流産・生殖外科・避妊・閉経に至る幅広い領域をカバーし、これらに関するエビデンスに基づくガイドラインを定期的に発行している。
| 項目 | 内容 |
| 正式名称 | American Society for Reproductive Medicine (ASRM) |
| 設立年 | 1944年(シカゴ) |
| 法人形態 | 非営利組織(501(c)(6)) |
| 本部 | ワシントンD.C.(本部)/アラバマ州バーミンガム(事務局) |
| 会員数 | 約7,943名(2023年末時点)[3] |
| 国際会員数 | 1,779名(111カ国)[3] |
| 公式サイト | https://www.asrm.org/ |

2. 設立の歴史と歩み
ASRMの歴史は、第二次世界大戦中の1944年に始まる。不妊症に関する研究と治療の改善、そして信頼できる情報の普及を目的として、シカゴで「American Society for the Study of Sterility(ASSS)」として創設された。[4]
創設当初の会員はわずか30名にすぎなかったが、年次大会の開催(1947年に初回)や学術誌の創刊を通じて組織は急速に拡大し、1964年の第20回年次大会には663名が参集するまでに成長した。[4]
| 1944年 | 「American Society for the Study of Sterility(ASSS)」としてシカゴで設立。初代会員数30名。[4] |
| 1947年 | 第1回年次学術大会を開催。 |
| 1950年代〜 | 学術誌 Fertility and Sterility を創刊・拡充。不妊治療の科学的基盤を構築。 |
| 1965年 | 名称を「American Fertility Society(AFS)」に改称。ニュースレターの発行を開始。[4] |
| 1977〜78年 | 政策立案への関与を強化。ACOG(米国産婦人科学会)のワシントン事務所との連携協定を締結。[4] |
| 1980年代〜 | 女性の役割向上のための Women’s Council を設立。専門分科会(生殖内分泌・生殖外科・IVF部門)が発足。[4] |
| 1990年代 | Practice Committee を設置しガイドライン策定体制を整備。バーミンガムに14,600平方フィートの本部ビルを取得。[4] |
| 1994年 | 第50回年次大会(サンフランシスコ)にて、現名称「American Society for Reproductive Medicine(ASRM)」へ改称。[4] |
| 2018年 | ASRM Research Institute を設立。生殖医療研究への独自助成を開始。 |
| 2019年 | 本部をワシントンD.C.に移転。創立75周年記念ガラを開催。[4] |

3. 組織構造と会員資格
会員構成
ASRMは世界100カ国以上の生殖医療専門職が参加する国際的な組織であり、2023年末時点での総会員数は7,943名(うち米国外会員1,779名・111カ国)に上る。[3]
低・中低所得国(世界銀行定義)の居住者に対しては、会費の割引制度が設けられており、グローバルな参加を促進している。
提携学会(Affiliated Societies)
ASRMの傘下には、特定専門領域に特化した5つの提携学会が置かれている。[5]
| 略称 | 正式名称 | 専門領域 |
| SART | Society for Assisted Reproductive Technology | ART(IVF成績の全国登録・管理) |
| SMRU | Society for Male Reproduction And Urology | 男性不妊・泌尿器科的生殖医療 |
| SREI | Society for Reproductive Endocrinology & Infertility | 生殖内分泌・不妊症 |
| SRBT | Society of Reproductive Biologists & Technologists | 生殖生物学・胚培養 |
| SRS | Society of Reproductive Surgeons | 生殖外科 |
プロフェッショナル・グループ(Professional Groups)
看護師・遺伝カウンセラー・心理士・法律家・診療補助者など、医師以外の職種のためのグループが6つ設けられており、各職種の専門的なニーズに応じた活動・ネットワーキングを提供している。[5]
4. 主要な活動内容
(1)ガイドライン・委員会意見の発行
ASRMの中核的機能は、エビデンスに基づくガイドライン(Practice Committee Documents)と倫理委員会意見(Ethics Committee Opinions)の策定・発行である。
これらは生殖医療の臨床的意思決定の国際的な基準として広く参照されている。[6]
(2)年次学術大会(Scientific Congress & Expo)
毎年秋に開催される年次大会は、世界中の生殖医療専門職が集う最大級の学術イベントである。
IVF・遺伝学・メンタルヘルス・閉経・PCOS(多嚢胞性卵巣症候群)など幅広いテーマのセッションが提供される。[7]
(3)教育プログラム(ASRM Academy)
ASRM Academyでは、オンライン学習・CME(継続医学教育)単位取得、および以下のような専門プログラムを提供している。
- CREST Program — 臨床生殖科学者養成プログラム(2026〜2027年度募集中)[1]
- KEEPR Program — 研修医向け生殖医療教育
- SPARK Program — 学生・若手医師向けキャリア支援
- Journal Club Global — 世界各地で開催される文献抄読会(英・西・仏語対応)[3]
(4)研究助成(ASRM Research Institute)
2018年に設立されたASRM Research Instituteは、他の資金源が不十分な生殖医療研究を支援する。
2024年には120万ドル超の研究助成を行った。支援分野は配偶子・胚の基礎研究、精密医療の生殖領域への応用、医療アクセスの改善など。[8]
(5)患者教育サイト(ReproductiveFacts.org)
一般市民・患者向けの情報サイト「ReproductiveFacts.org」を運営し、ファクトシート・FAQ・医療機関検索ツールを提供している。

5. 最新のガイドライン・委員会意見(2024〜2026年)
ASRMのPractice Committeeは、新たなエビデンスが蓄積されるたびに既存のガイドラインを改訂・更新する。以下は2024〜2026年に発行・更新された主要な文書である。[6]
Practice Committee Documents(診療ガイドライン)
- 早発卵巣不全(POI)のエビデンスに基づくガイドライン — 診断の迅速化・個別化された管理と共同意思決定を推進。患者の生活の質と長期的アウトカムの改善を目的とした包括的な改訂版。
2024年
- 不妊治療薬と癌リスクに関するガイドライン — 排卵誘発剤・ART使用と卵巣癌・乳癌リスクの関係を整理。
2024年
- 配偶子・胚提供のガイダンス — ドナー適格基準・スクリーニング・インフォームドコンセントの更新。
2024年
- 反復流産の評価と治療(Evaluation and Treatment of Recurrent Pregnancy Loss) — 2025〜2026年版改訂。遺伝的要因・加齢の関与を再整理。[9]
2026年(最新)
Ethics Committee Opinions(倫理委員会意見)
- 父母の加齢に伴う生殖補助医療の倫理的検討(Assisted reproduction with advancing paternal and maternal age) — 高齢患者へのARTを行う際の倫理的配慮、リスク説明、施設の裁量に関する指針。[10]
2025年
| ガイドラインの位置づけ これらの文書はあくまでも「Practice Committee Opinions」であり、法的拘束力を持つ規制ではない。しかし米国内外の不妊専門クリニック・学会がデファクトスタンダードとして参照するため、実質的に国際的な診療基準を形成している。 |
6. 学術誌ファミリー
ASRMは生殖医療分野において最も権威ある学術誌群を発行している。[3]
| Fertility and Sterility フラッグシップ誌。インパクトファクター(IF)7.0。産婦人科・生殖生物学カテゴリで上位ランク(産婦人科140誌中5位、生殖生物学42誌中3位)。[14] | F&S Reports 短報・症例報告・限定的なデータの速報に特化したオープンアクセス誌。2025年6月に初のインパクトファクター取得予定。 |
| F&S Science 基礎・並進研究に特化。動物モデル・細胞生物学・分子生物学的知見を掲載。 | F&S Reviews 生殖医療全領域の系統的レビュー・メタ分析を掲載。エビデンス統合に特化。 |
F&S Reports・F&S Science・F&S ReviewsはEmerging Sources Citation Index(ESCI)に採録済みであり、2025年6月に初のインパクトファクターが付与される予定。[3]

7. 年次学術大会(Scientific Congress & Expo)
ASRM 2025 Scientific Congress & Expo
| 項目 | 内容 |
| 開催地 | テキサス州サンアントニオ、Henry B. Gonzalez Convention Center |
| 開催期間 | 2025年10月25日〜29日 |
| 大会テーマ | 「Global Collaboration to Advance Reproductive Health」 |
| 主要テーマ | IVF・遺伝学・メンタルヘルス・閉経・PCOS・避妊・男性不妊など |
ASRM 2026 Scientific Congress & Expo
2026年大会のテーマは「Discovery, Innovation, and Advancement」。開催地はメリーランド州ボルチモア(2026年10月24〜28日)。
生殖医療のイノベーションに焦点を当て、グローバルな視点を取り入れた動的なセッション構成が予告されている。[11]
| 大会の意義 ASRMの年次大会は、世界中の生殖医療専門家が一堂に会し、最新の研究成果・臨床知見を共有する場である。参加者は婦人科医・泌尿器科医・胚培養士・看護師・心理士など多職種にわたり、領域横断的な知見の統合を促進する。 |
8. 政策提言・アドボカシー
ASRMは生殖医療に関する政策立案において強力な提言活動(アドボカシー)を行っており、「Center for Policy and Leadership(CPL)」を設置して専任チームを構成している。
アラバマ州IVF判決(2024年)
2024年2月、アラバマ州最高裁が凍結胚を「子ども」と見なす判決(LePage v. Center for Reproductive Medicine, P.C.)を下したことで、同州のIVF診療が一時停止された。
ASRMはこの判決への対応として、誤情報を打ち消すための情報シリーズを発行するとともに、10州でのラジオ広告・郵便・SNSキャンペーンを展開し、7州で生殖の自由を保護する措置の可決を実現した。[8]
IVFに関する連邦立法への働きかけ
2024年には「ASRM IVF Scorecard」(議員のIVF関連採決記録を有権者向けに整理したもの)を初めて公表。
また25通の連邦連合書簡への署名、4件のAmicus Brief提出、39通の州議員宛書簡送付など、法的・政治的働きかけを多面的に実施した。[8]
トランプ政権のIVF政策への対応(2025年)
2025年11月、ASRMはトランプ政権のIVFイニシアチブを独自に評価したホワイトペーパー「Evaluating the Trump Administration’s Initiative on IVF」を発行し、政策内容の検証と患者へのアクセス確保に向けた政策提言を行った。[12]
カリフォルニア州SB 729の成立支援
ASRMはEquality CA・RESOLVEなど他の支援団体と協力し、カリフォルニア州で不妊治療保険適用を義務付ける法律(SB 729)の成立を支援。
これにより不妊治療の何らかの保険適用を受けられる米国人が6,000万人に達した。[8]

9. 日本の生殖医療との関わり
IFFS 2025 World Congress(東京)との連携
2025年4月に東京・東京国際フォーラムで開催された「IFFS(International Federation of Fertility Societies)2025 World Congress」は、日本生殖医学会(JSRM)が主催し、ASRM幹部が登壇・協力する形で実施された。[13]
同大会には日本生殖医学会第70回年次大会(会長:塩谷雅英・英ウィメンズクリニック)が併催された。
JSRM Conjoint Meeting
ASRM年次大会では「JSRM Conjoint Meeting」が定期的に開催されており、日米の生殖医療専門家が最新のエビデンスを共有・議論する場が継続的に設けられている。
| 日本への影響 日本の生殖医療は、保険診療化(2022年〜)を契機に急速に標準化・均てん化が進んでいる。ASRMのガイドラインは国内学会のステートメント策定や診療プロトコルの参照文献として広く活用されており、最新の国際標準を把握するうえで不可欠な情報源となっている。 |
10. ASRMが日本の不妊治療臨床に持つ意義
ASRMは単なる「米国の学会」にとどまらず、生殖医療のグローバルスタンダードを実質的に策定・発信する組織として機能している。その意義を以下の観点から整理する。
(1)エビデンスベースの診療基準
定期的に更新されるASRMガイドラインは、反復流産・POI・男性不妊・ART周産期リスクなど、日々の診療で直面する課題に対し、系統的なエビデンスレビューに基づいた指針を提供する。患者への説明・IC文書の根拠としても有用である。
(2)倫理的判断の枠組み
倫理委員会意見は、高齢患者へのART・胚提供・第三者生殖など、日本でも議論が増えている複雑な場面における判断の参考となる。
法令のみでは対応できない「灰色地帯」を整理するうえで価値が高い。
(3)学術誌・情報収集の拠点
Fertility and Sterility(IF 7.0)は、生殖医療領域で最も引用される学術誌の一つである。[14]最新の臨床エビデンスを継続的に追うためには、同誌の定期購読・Alert設定が有効である。
(4)政策動向の先行指標
ASRMが発信する政策提言・ホワイトペーパーは、日本の診療報酬改定や保険適用拡大の議論に先行するグローバルな動向を反映している。
患者アドボカシーや規制環境の変化を予測するうえで参考になる。
(5)多職種連携の示唆
ASRMが胚培養士・看護師・心理士・遺伝カウンセラーを同一の傘組織に包摂している構造は、チーム医療体制の構築において参考にできるモデルである。
特に心理的サポートの仕組み化・カウンセリングの標準化を検討するクリニックにとって示唆に富む。

