2026年2月28日 編集長@池上文尋
近年の中国では、晩婚化や環境問題などを背景に不妊に悩む人々が急増し、生殖医療市場が爆発的な成長を遂げています。しかし、国内の医療体制や厳しい法規制が需要に追いつかず、多くの人々、特に富裕層は海外に活路を求めています。
この記事では、中国本土と香港の生殖医療事情、そして日本やその他の国々への医療ツーリズム(インバウンド治療)の現状と課題について、多角的に深く掘り下げていきます。

第1章:急成長と規制の狭間:中国本土の生殖医療
中国の生殖医療市場は、巨大な需要を背景に急速に拡大していますが、同時に多くの課題も抱えています。
市場規模と医療体制
中国では不妊に悩む患者が4,000万人以上にのぼると推定され、世界最大の不妊治療市場を形成しています。
この巨大な需要に応えるべく、生殖補助医療(ART)を提供する施設は増加傾向にあり、2023年時点で539カ所に達し、政府は2025年までに600カ所を超える規模に拡充する方針です。
市場規模は2025年には854億元(約1.7兆円)に達すると予測されていますが、これは民間調査による推計の一つです。
国内には、北京協和医院、四川大学華西第二医院、上海交通大学医学院附属瑞金医院など、国際的にも評価の高い医療機関が存在します。これらのトップクラスの病院では、体外受精(IVF)の成功率が50%~60%に達すると報告されていますが、国内の平均成功率は約30%強に留まります。
また、着床前遺伝子検査(PGT)などの高度な技術も導入が進んでいますが、その恩恵を受けられるのは一部の施設に限られているのが現状です。
法規制の枠組みと社会的課題
中国本土の生殖医療は、厳格な法規制の下に置かれています。その根幹をなすのが、2001年に衛生部(当時)が公布した「ヒト生殖補助技術管理規則」および関連規範です。これらの規制は、技術の安全な発展を目的としつつも、現代の多様なニーズとの間に大きな隔たりを生んでいます。
厳しい対象者制限:最大の障壁は、治療対象が法律上の婚姻関係にある異性カップルに限定されている点です。2003年に改定された「ヒト生殖補助技術規範」では、「国の人口・計画出産法規に合致しない夫婦および独身女性」への技術適用が明確に禁止されました。
独身女性の卵子凍結:上記の規定に基づき、原則として禁止されています。2018年末に卵子凍結を拒否された独身女性の徐棗棗(シュ・ザウザウ)さんが2019年に病院を提訴しましたが、裁判所は国の規定を根拠に訴えを退け、2024年に敗訴が確定しました。この裁判は、女性の生殖に関する自己決定権を巡る大きな議論を巻き起こしました。
代理出産の全面禁止:「ヒト生殖補助技術管理規則」第3条で「医療機構和医務人員不得実施任何形式的代孕技術(医療機関および医療従事者は、いかなる形式の代理出産技術も実施してはならない)」と明記されており、全面的に違法です。当局は厳しく取り締まる姿勢を示しています。
配偶子・胚の提供と性別選択:精子や卵子、胚の売買は固く禁じられています。また、医学的な理由のない性別選択も禁止されています。
これらの規制により、独身女性や同性カップル、また特定の治療を望む人々は、国内で希望する医療を受けることができません。
さらに、信頼できる医療機関が都市部に集中しており、地方との格差や、需要に対する供給不足が深刻な課題となっています。
近年、人口減少への危機感から、2015年に「一人っ子政策」を廃止し「二人っ子政策」への転換が決定(2016年施行)され、代理出産禁止条項の法制化が見送られるなど、政策転換の兆しもないわけではありません。
しかし、依然として法的な壁は高く、多くの人々が海外に活路を求めざるを得ない状況が続いています。

第2章:自由と規制が共存する香港の生殖医療
「一国二制度」の下、香港は中国本土とは異なる法制度と医療システムを有しており、生殖医療においてもその違いは顕著です。
本土との法制度比較
香港は、本土に比べて生殖医療に関する選択肢が広い一方で、独自の厳格な規制も存在します。香港の規制は主に「ヒト生殖科技條例(Human Reproductive Technology Ordinance)」および関連する実務守則に基づいています。
表:中国本土と香港の生殖医療に関する法規制の比較
医療システムと特徴
香港の医療は国際水準にあり、特に私立病院では最新の設備と高度な技術が提供されています。しかし、公立病院は非常に長い待機時間(数ヶ月~数年)が問題となる一方、私立病院は費用が高額です。
地理的な近さから、本土の富裕層がより自由度の高い治療を求めて香港を訪れるケースも少なくありません。特に独身女性が将来に備えて卵子凍結を行うために香港へ渡航するのは、一般的な選択肢となっています。

第3章:国境を越える不妊治療:中国人患者の海外渡航
国内の規制や医療サービスへの不満から、年間数万人以上の中国人が海外での不妊治療を選択しているとみられています。その渡航先は、地理的・文化的に近い日本や東南アジアから、最先端技術を誇るアメリカまで多岐にわたります。
日本へのインバウンド治療:質の高さと地理的近さ
近年、日本の医療機関が中国人患者にとって魅力的な選択肢として浮上しています。
「中国で信頼できる技術・サービスを提供する病院が限定的であることから、金銭的な余裕のある夫婦は他のアジア諸国や欧米での治療を選択している」
日本が選ばれる主な理由は以下の通りです。
高い医療水準とサービス:日本の医療技術、特に医師やスタッフの丁寧な対応、清潔で快適な施設環境は高く評価されています。
地理的・文化的近さ:中国から数時間のフライトでアクセスでき、複数回にわたる通院の負担が少ない点は大きな利点です。
医療滞在ビザ:日本政府は2011年から「医療滞在ビザ」を導入し、外国人患者が治療目的で長期滞在(最大6ヶ月)しやすくなりました。
これを受け、日本のクリニックやエージェントによるインバウンド向け不妊治療事業も登場しています。例えば、中国人夫婦を対象にビザ取得から通訳、滞在支援までをパッケージで提供するサービスや、倉敷成人病センターのように婦人科治療と観光を組み合わせたプランを造成する実証事業も行われています。
しかし、日本にも課題はあります。第三者からの卵子提供は法律で制度化されておらず、ドナー不足が深刻です。そのため、卵子提供を希望する患者の受け入れは極めて限定的です。

日本以外の主要渡航先:費用、法規制、特定サービスで選ぶ
中国人患者は、自身の目的や予算に応じて世界各国の選択肢を比較検討しています。
アメリカ:世界最高水準の技術を誇りますが、IVFの平均成功率約52%という数字は、対象の年齢層や算出基準(生産率か妊娠率かなど)によって大きく変わるため、解釈には注意が必要です。
代理出産や卵子提供に関する法制度が整備されている州が多く、透明性の高いプロセスが魅力です。しかし、費用は群を抜いて高額で、卵子提供には700万円~1,200万円以上かかることもあります。
タイ:かつては規制が緩く「生殖ビジネスの中心地」とされていましたが、2015年に商業的代理出産や外国人への代理出産が禁止されました。現在も非合法な仲介業者が存在すると指摘されていますが、費用はアメリカより安価です。
ベトナム:IVF費用は47万円~63万円程度と比較的安価なことが魅力です。成功率は45%~70%と報告されており、国内情報源では高い水準が示されています。また、独身女性でもARTを受けられるなど、法的な柔軟性もあります。
ロシア:かつては代理出産の主要国でしたが、2022年に外国人向けの代理出産を禁止する法律が成立し、渡航先としての魅力は失われつつあります。

第4章:市場の展望と日本の役割
世界の不妊治療ツーリズム市場は、2032年には130億ドルを超える規模に成長するという予測もありますが、この数値は調査機関によって大きく異なり、あくまで推計の一つとして捉える必要があります。
いずれにせよ、国境を越えた患者の移動は今後さらに活発化すると見込まれており、この巨大な市場の中で、日本はどのような役割を果たせるのでしょうか。

日本の競争力と課題
日本の強みは、単なる医療技術の高さだけではありません。患者に寄り添う丁寧なサービス、清潔で安全な環境、そして豊かな観光資源との連携は、他国にはない付加価値を生み出す可能性があります。
厚生労働省などが推進する「地域の医療・観光資源を活用した外国人受入れ推進のための調査・実証事業」では、人間ドックや治療と観光を組み合わせた富裕層向けプランが各地で開発されており、不妊治療分野でも同様の展開が期待されます。
一方で、最大の課題は法整備の遅れです。特に、第三者からの配偶子提供に関するルールが不明確な点は、海外からの患者受け入れの大きな足かせとなっています。出自を知る権利の保障や、商業化を防ぐための規制など、倫理的な側面も含めた国民的な議論と法整備が急がれます。
結論
中国の生殖医療需要は、今後も拡大の一途をたどることは確実です。国内の規制と現実のニーズとのギャップが埋まらない限り、海外に解決策を求める人々の流れは止まらないでしょう。
日本は、その高い医療水準とサービス品質を武器に、この流れの有力な受け皿となる大きな潜在能力を秘めています。
しかし、国際競争は激化しており、費用面で優位な東南アジア諸国や、法制度が整った欧米諸国との差別化が不可欠です。日本の強みを最大限に活かし、同時に法整備や受け入れ体制の構築といった課題に真摯に取り組むこと。
それが、日本の医療が国際的な信頼を勝ち取り、世界の不妊に悩む人々に貢献するための鍵となるでしょう。
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